2011年5月17日火曜日

ただいま、おかえり。

家に帰って数日がたちました。

やっぱり、家は落ち着きます。

ここからまた新しい生活を始められそうな気がします。



なんだかゆったりとした時間を過ごしたくて、なんとなく

インターネットから遠ざかっていましたが、「なにかを

伝えたい」という気持ちがときどきふっとわいてきます。



今日は夫と、大好きな「もやい工芸」で麓のお線香立てを

買いました。気持ちが落ち着いたと同時に、しみじみと

「ああ、なんてかわいい子を亡くしたんだろう」と涙が

溢れました。



今回息子の死を体験して、他に同じ悲しみを抱えている人が

たくさんいることを知りました。そんな人たちの思いを

知ってみたくて、「誕生死」という本を読んでみました。



英語では、おなかで亡くなったケースを「STILL BORN」と

いうそうです。「それでもなお生きた」という意味の英語と

あまりにもかけ離れた「死産」という日本語。それをそぐわない

として、体験した方々が流産・死産・新生児死をすべて含めて

「誕生死」と呼ぶことにしたそうです。



この本に手記を寄せた方たちの体験は、私よりももっともっと

過酷で、辛いものばかりでした。新聞記事によると、死産は

年間3万人、流産は30~40万人にのぼるそうです。病気や

障害で亡くなる赤ちゃんもたくさんいます。

また、生きていても重い病気や障害で苦しんでいるこどもが

たくさんいて、幼いこどもの苦しむ顔を見ている親の気持ち

を考えると胸が詰まりそうになりました。



「どうか生きていてほしい」

「もしかしたら助かるかも」

「生きていてくれたら今頃は...」



我が子に対してそんな気持ちを抱くという経験をして、

他の同じ思いを抱く方の気持ちが痛いほど分かるように

なりました。



本のあとがきに、自分の心持ちに重なる文章を

見つけました。



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何分の一かの確率で起こる病気だったから、事故だった

のだから、自然淘汰だったのだから、などと、赤ちゃんの

死にどのような理由がつけられようとも、親にとっては

かけがえのない一つの命が消えたという事実に変わりは

ありません。たとえ、何人子どもがいても、亡くなった

子の存在は一分の一です。いくら死の原因に納得しても、

わが子の死という理不尽なものを、納得し、受け入れる

ことはできないのです。

でも、時間と共に、新しい気づきもあります。それは、

亡くなったわが子が教えてくれた、あるいは与えてくれた

「何か」に気づくことです。それがどういうものかは、

それぞれの人によってちがいます。そういう小さな気づき

を集めていくことは、幸せとも言えることだと思っています。

大切なものに気づいていくことで、私たちの心の中で、

もう一度あの子の命がしっかりと生まれたと感じること

ができます。



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時間がたてばこの悲しみは消えるものだと思っていました。

でも麓を失った悲しみは、消えることなんてないという

ことに気がつきました。そして、それでいいんだという

ことも分かりました。



時間がたつにつれて薄れていくことはなく、だんだん

何かが鮮明になってくるというのは不思議...



悲しみを受け止めること。

痛みを抱えて生きていくこと。



今までの人生で知らなかったこと。知っていたつもりでも

分かっていなかったことを教えてくれた我が子の死。



改めて親、特に母と子の絆の強さを感じます。



なんだか麓のことについてばかり書いてしまいます...

どうしても重い内容になりがちですが...こうやって

思いを綴ることで、少しずつ前に進めるのかな、と。

いつも見てくださる皆さん、しばらくお付き合い下さい~。



もう少ししたら、サーフィンを再開してみようかな、

なんて思っております。自然に思いっきり身を任せたい

気分です。



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