2013年4月25日木曜日

赤ちゃんの肌についての考察 その7 自然治癒

8ヶ月を迎えた娘の頬は、すっかりきれいになりました。



7ヶ月までは、湿疹が出たり引っ込んだり、を繰り返して

いたのですが、湿気が多くなったせいか月齢のせいなのか

すっかり改善しました。



空気が乾燥している間はぬるま湯をかけるだけで

お風呂に入れていなかったのですが、やっと家族4人

揃って入浴できるようになりました。



夏生まれの赤ちゃんには皮膚トラブルが多いと聞きます。

治るだろうと思っていても、湿疹だらけの肌を放置する

のは勇気が要るもの。近所の皮膚科の先生に

「放っておけば治るよ。ステロイドなんてかわいそう」

と言われなければ、私も薬に頼っていたかもしれません。



乳児湿疹で悩むママのブログでは、娘と同じように

��歳近くなって改善するケースが多いように感じます。

それまで我慢できるか、が勝負。

耳や顔を引っ掻く癖も湿疹のかゆみのせいかと

思っていましたが、今でもよく掻いているので

赤ちゃんの習性みたいです。



アトピーになってしまうのは、薬や保湿クリームに

依存してしまうのもひとつの原因かもしれない・・・

と今回の経験を経て考えるようになりました。



最近ではびわの葉エキスもほとんど使用していません。

まだ手や足ががさがさしている部分もありますが、

基本的に放置。



引っ掻き傷などを見ていても、本当に赤ちゃんの

治癒力はすごいものなので、赤ちゃんが苦しんでいる

様子がなく、見た目だけの問題であればママは

優しく見守ってあげるのが、一番の薬なんだと思います。



大人の肌トラブルについては、なかなか完全な治癒が

難しいのですが、我が家ではとりあえずこの冬

びわ葉エキスと梅エキスで乗り越えました。



2013年4月22日月曜日

先祖と子孫





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鹿児島滞在中、親戚のおじさんの家をたずねてきた

初対面のおばあちゃんと話しました。

そのおばあちゃんは父の小さい頃を知っているそうで

私と子供たちの顔を見てとても喜んでくれました。



おばあちゃんは手拭をしてもんぺを履いていて

いかにも昔のおばあちゃん。

「田植えの時期は忙しくなりますね」と聞くと

「最近じゃ米を買ってしまう方が安いんだけんど

ご先祖さまからもらった田んぼだからー」

と言っていたのが印象的でした。



一昔前までは日常生活にたくさん登場していた

であろう「ご先祖さま」という言葉。

顔も知らぬご先祖さまを、自分たちの身近にある

自然の中に、暮らしの中に、感じていた時代。



日本人はそうやって、自然の中に神さまや

ご先祖さまの存在を感じる力を確かにもっていた

ことを改めて実感しました。



おじさんの家の前に広がる田んぼの一番奥には

鳥居があって、その裏には鎮守の森が広がっています。



当たり前だった日本の風景。

ご先祖さまとの繋がりを感じる、自然と信仰。



数十年後、その田んぼと森はどうなっているのだろう。



ネイティブアメリカンが七世代先の子孫のことを

考えていたように、日本人は何世代も前の

ご先祖さまのことを考えていました。

それって実は同じような意味をもっているのでは

ないかと感じています。



ご先祖さまの大切にしていたものを残すってことは

子孫にかけがえのないものを残すことなんじゃないか、

と・・・



田んぼをなくして家を建てるのも子孫のためかも

しれませんが、そこに自然と信仰はなくなってしまう

ということが、実際の田んぼを見てわかりました。



忙しく仕事をしているオフィスの中で

ぐったり疲れて乗る最終電車の中で

ご先祖さまへの感謝の気持ちは、

なかなか感じることはできない気がします。



その土地を自然のまま残すということは

その土地を守ってきたひとたちの思いを残すこと。

古いマンションが新しいマンションになるのとは

まったく違う意味がある。



なにかを残すというのは並大抵の努力では

できないこと。

いつかどこかで何かを覚悟しなくては。











2013年4月18日木曜日

刷り込みの不自然

普段テレビのない生活をしていると、テレビの中で

起こっていることを、割合客観的に眺められることに

気づきました。



鹿児島で久しぶりに昼下がりのテレビ番組を見ていたら、

CMのほとんどが生命保険、特に医療保険。ターゲットは

その時間にテレビを見る暇がある65歳以上の癌に備えたい人。



人間にとって、生まれて歳をとり病になって死ぬのは

最も自然なことであるのに、現代ではそのすべてに

お金が絡んでいて、不自然なものになってしまいました。

自然なことであれば、それが予測不可能なのは当然なこと

だけれど、現代人は生老病死から逃れようと必死です。

CMでも「万が一に備えて」と、あたかも病気や死が

滅多にやってこないもののように言っていました。



予定出産、整形、生命保険、お墓の購入、延命処置…

最も自然で予測できないはずの生老病死にまでも、

お金を払って備えることで安心を手に入れようとする私たち。



先日読んだ本の中に「病を得て死ぬ」という表現があって、

これはいいなと思いました。

病にならずに死ねるほうが珍しいことで、ほとんどの死は

病によるもの。老いて弱れば、病になるほうが自然

なのですね。



病や死に方は日々の衣食住働に拠るところが大きいので

なるべく自然に世を去るためには、やはりなるべく

自然に生きてみるのがいいように感じます。

考え過ぎず、徒然なるままに。

そこらじゅうに溢れる問題は、ややこしそうに見えて

実は単純であることが多いもの。

テレビの声ではなくからだの声を聴き、心と脳を

解放しながら日々からだが動くままに生きたいと

思いました。





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2013年4月16日火曜日

小さな町の大きな心

「私たちは建築家の脳の中に住んでいる。

あるいはさまざまな人が設計したシステムの

中に住み着いています。

人間が設計しなかったもの、それが自然の定義です。」

-養老孟司 かけがえのないもの-より抜粋



鎌倉も東京23区に比べるとかなり自然が多い

場所ですが、鹿児島は鎌倉に比べて圧倒的に

人が少ないので、「自然に覆われている」感が

強いです。人間がまだ自然をコントロール

しきっていないというか、自然と共生することで

より多くのものを得ることが出来るというか・・・



こちらではどうも生き物のサイズも都会より

ひとまわり大きい気がします。

森が豊かであるほど、生き物は大きいままで

暮らせるのかもしれません。



そういえば、「もののけ姫」で猪がこんな

セリフをいう場面があります。



「わしの一族を見ろ!みんな小さくバカに

なりつつある。このままでは、わしらは

ただの肉として人間に狩られるようになるだろう」



山や森がなくなることで、動物がただの肉に

なってしまう、と物語の中では言っているの

ですが、実際には動物が変わるわけではなく

人間の意識が変わってしまったということを

映画は伝えているのだと思います。



都市化にともなって人間が自然を排除するように

なり、私たちは牛や豚を畏れたり奉ることもなく

家畜として見るようになりました。



自然に圧倒されていれば、自然を畏れ敬うもの

ですが、都市では少しでも自然の脅威を

排除しようとします。海や川をコンクリートで

埋め、虫は殺虫剤で徹底的に殺します。

その排除に対する勢いは狂気とも思えるほど。



人と人の住んでいる距離はどんどん縮まって

いるのに、人間同士のコミュニケーションも

希薄な都市の生活。



動物のように体が小さくなるわけでは

ありませんが、山や森などの自然がない

場所では、人間の場合心の許容量が小さく

なってしまうのではないでしょうか。



自然と対峙・一体化する生活やスポーツを

経験することがどんなに人の価値観を変えるか

が、都市と自然のなかの生活を繰り返すことで

よく分かります。



都市化を止めることも昔に戻ることも不可能

ですが、意識を変えることで都市設計の内容は

変わると思います。

こどもたちの未来の生活が、ストレスに満ちた

ものになってしまうのか、それとも大きな

心をもてるようになるのか・・・

まさに未来は私たちの手の中にあるのだと

感じている田舎の生活です。





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2013年4月15日月曜日

鹿児島で迎える2年目

4月11日は麓の誕生日でした。



生きていればもう二歳。



稜太がはじめて鹿児島にきたときと同じ歳です。



今回また鹿児島に来て

悲しい思いに沈むかと思っていましたが

そんなことは全然なく、むしろ

忘れかけていた麓との時間や、あのときの気持ちを

思い出せることが嬉しい毎日です。



この家や庭がそのまま麓の形見のようで

美しい形見を受け取れることは

残された人にとって本当に嬉しいことなんだと

初めて実感しました。



家の棚に残されていたのは

麓が産まれた病院でもらった出産祝いのバスタオルと

亡くなった病院から家に連れて帰って来た時に

麓がくるまれていたバスタオル。

たった二週間だったけど一緒に過ごした日々が

思い出されました。



私に抱かれて産まれ、

私に抱かれて逝ったこと。



あのときと同じ並びの布団で、あのとき麓がいた場所に

いまは葉月が寝ています。

麓が生きていたら、会うことのなかったであろう娘。

その寝息を聴いて眠りにつくのは、本当に幸せで

改めて家族が元気で一緒に暮らせることに感謝しています。



おめでとう。ありがとう。

ただいま、麓。





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2013年4月6日土曜日

正直なこころ



前回の記事で、鹿児島に行くことは怖くない、と

書きましたが、自分の気持ちについてよく考えてみると

やっぱり少し怖いような気がします。



人は大きな悲しみにぶつかった時、時間をかけて

その鋭く悲しい思いの尖った角を丸く削りながら

優しい思い出に書き換えていきます。



でもふとした瞬間に元のままの尖った記憶が

呼び覚まされることがあります。



鹿児島に行ったら、麓を亡くしたときの

とてもリアルな感覚が呼び覚まされるような気がして

少しだけ怖かったりします。

人には言えないような、私と夫だけがあの時共有した

恐怖、不安、悲しみ、そして絶望。



でもそれ以上に、家族や親戚との密な時間や、

麓のくれた命の輝きや、4人の愛に溢れていた家が

待っていると分かっているので、やっぱりあの場所に

戻るのはとても楽しみです。



では、行ってきます!




2013年4月3日水曜日

4月とつきあう



��月の雨は命の恵み。喜びの雨。



でも、4月の雨が私を憂鬱にしてしまうのは

仕方がないことなのだと気がつきました。



ここ数日なんだかやる気が起きないのは、息子と

娘からうつった風邪のせいかと思っていましたが、

いやいや、それだけではありませんでした。



「こどもを亡くした母親が、その子の月命日が近づく

たびに辛い気持ちになる」という新聞記事を読んで

そうかそうか、そうだよな、と自分の沈む心に納得。



心は乗り越えたつもりでも、4月のにおいを、雨音を、

からだは5感と第6感でしっかり思い出すんだなあ。



本来なら頭でしっかり、「あと○日で麓の誕生日!」とか

数えるべきなんだろうけど、生きている小さなふたつの

忙しい命と暮らしていると、それさえも忘れてしまって・・・

そのことにまた落ち込んでみたり・・・



でもこの2年間で学んだことは、悲しいときは素直に

落ち込んで、泣いて、心とからだをしっかり休めて、

無理はしなくていいということ。特に春の雨の日は。



来週からの鹿児島では、さらに心の浮き沈みがあると

思うけれど、特に怖いという思いはなく、いまはただ

楽しみです。心が大きく動くということは、新しい何かを

得ることが出来るってことだと思うので。



沈みながらも、2年前に感じた最大の悲しみが自分を

強くしてくれていると気付く4月です。



Light / PHISH



I can see the light between me and my mind

I can feel memories fall behind

And the light is growing brighter now

And the light is growing brighter now



I see the future is less and less there

And the past has vanished in the air

And I'm left in the now with a wondrous glo

I think I’m still me

But how would you know?



It takes a few moments of whirling around

Before your feet finally leave the ground

And fending off fears and hearing the call

And finally waiting for nothing at all

And the light is growing brighter now

And the light is growing brighter now



Obstacles are stepping-stones

That guide us to our goals

Fences are filters

That purify our souls